【朝礼の話⑲】現在地の矢印
2024.02.24

ルーチェ・ガーデンの金魚草

 

自分とは何か

今日は「自分とは何か?」というテーマでお話ししたいと思います。これは哲学的な大問題で、人類はずっとこの問題をいろいろな角度から考え続けてきたんですね。これまでに先哲たちによっても様々な考え方が提示されていますが、もちろん一つの正解はありません。

現代では特に「主体性」ということが問われていて、「自分」の考えや気持ちや生き方をしっかり持つことが求められますが、その前にそもそも「自分」とは何だろうという問題です。

 

自分とは現在地の矢印のようなもの

有名なところで言うと、デカルトの「我思うゆえに我あり」とか、いろいろありますが、私が最近、分かりやすくて「なるほど」と思った説明が、「自分とは現在地を示す矢印のようなものだ」という比喩です。駅の出口とかに街の周辺の地図が掲示されていて、今自分がいる場所に「現在地」として示されている、矢印がありますね。自分とはその矢印のようなものに過ぎないのではないかと現代文の評論文でもお馴染みの養老孟司さんが『「自分」の壁』(新潮新書)という本の中で言っています。

歩いていくと、どんどん現在地が変わって行くように、私たちも生きていく中で、日々変わって行くものだということです。よく「本当の私」とか「本当の自分を見つける」「自分探し」とかいう言い方をしますが、その「本当の私」とは目的地というよりは、日々変容して行く現在地のようなものではないかという考え方です。

もちろん「理想の自分」というのも必要ではありますが、ではそれが実現できないと自分ではなくなるかというとそうではありません。むしろ様々な状況に対応して理想も変わっていくものです。その意味で「自分」は「変わっていく」というより、「更新(アップデート)されていく」と言った方がいいかもしれません。

 

広がっていく周辺図は自分の世界

養老さんの考え方に私はもう少し付け加えたいと考えています。自分は現在地の矢印のようなものとして、生きていくなかで、その「周辺図」はナビの画面のように同じサイズで移動していくのではなくて、どんどん大きくなって広がっていくものだと思います。その地図は自分の世界です。私たちが勉強する意味の一つもそこにあるのではないでしょうか。いろいろなことを学んだり体験したり、出会いがあったり、あるいは日々起こる出来事に自分なりに対応したりする中で、自分の世界はどんどん広がっていく。それが人生だと私は思うのですが、皆さんはどうでしょうか。

校長 村手元樹

*2024.2.8 全校朝礼