春の花、ネモフィラが咲き始めました(校門付近の花壇)
「自分とは何か?」後編 Self-as-We
先回(朝礼の話⑲参照)、「自分とは何か?」というテーマでお話しし、「自分とは現在地を示す矢印のようなもの」という考え方を紹介しました。
今日はその後編で、もう一つ私が「なるほど」と思う、「Self-as-We」という考え方を紹介します。「Self-as-We」は日本語で言うと「我々としての自己」「私たちとしての私」です。自分という存在は思いの外、私たちとして存在している、他者と共に生きている(共生している)というか、一体化して生きていると言えるのではないかという考え方です。
いろんな観点でそう言えるのですが、今日は三つの観点をお話しします。
生物的観点から見ても「私たちとしての私」
一つは生物学的にもそう言えます。例えば、腸内細菌は他者です。他の生き物が自分の中で働いて健康を維持してくれているわけです。
また自分のご先祖様はどのくらいいるかと考えると、お父さんお母さんお祖父ちゃんお祖母ちゃんと10代遡っていくと1000人ぐらいが自分の前にいて、命のバトンを引き継いでいるという話もあって、そういう意味でも「私たちとしての私」です。
拡張する「私」
二つ目は意識的な観点です。「自分論」では「自分とはどこまで自分か」という「自分の範囲」が論じられてきました。人間は道具を使う動物ですが、その道具と一体化して自分が拡張するという意識になる時があります。例えば自転車に乗るときも慣れてくると意識から自転車が消えて、私が街を疾走している感覚になります。
また自分にとって大切な物によって心癒やされたり元気になることもあります。皆さんが鞄に付けているマスコットなんかも「私たち」かもしれません。
自分の考えも他者とともに作られる
三つ目は自己形成的な観点です。例えば、自分の考え方や感じ方がどのように作られるかというと、たぶん、自分の中だけから湧いて出てきたものではないでしょう。生育過程において、親の考えとか沢山の出会った人の考え方とか読んだ本や様々なメディア、あるいは学校の授業とかの中でインプットされていく、沢山の人たちの考えをもとに私の考えは作られているものだと思います。そういう意味でも「私たちとしての私」と言えます。私が日々変わって成長していけるのも私という存在が他者との交流の中で存在しているからです。
私自身も皆さんの前で偉そうにいろいろお話ししていますが、どうして恥ずかしげもなく話せるかと言えば、たぶん、この考え方は私一人の力だけで作ったものではないからです。聖書を通してイエス様とか夏目漱石とか兼好法師とか、あるいは両親とか、出会った人々が自分の中にいて、「私たちとしての私」として話しているからではないかと思います。
孔子も「私たち」として語っている
最後に『論語』の中で孔子が語っている、驚くべき言葉を紹介します。「述べて作らず、信じて古へを好む」という言葉です。これは「私の述べることは私のオリジナルではない、古典の言葉、先人の言葉をもとに述べているだけだ」ということです。『論語』と言えば今から2500年ほど前に書かれ、私たちからすれば、古典の中の古典という感じなのに、その孔子でさえ彼以前の古典の中に真理を求めているのです。まさに「私たちとしての私」です。
校長 村手元樹
*2024.2.22 全校朝礼
*“Self-as-We”は哲学者の出口康夫さん(京都大学教授)が東洋的な自己観をベースに提唱している概念です。出口先生の講義をyoutubeでも見ることができますので、興味のある方はご覧ください。