【朝礼の話㉖】清い心と強さ
2024.09.25

聖カピタニオ像のわきに 咲く千日紅

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇清い心から責任と奉仕が生まれる◇

9月の話のテーマ「清い心」そしてもう一つ「強さ」ということなんですが、今日は「清い心」についてリマインド的な話になりますが、お話ししたいと思います。

「清い心」というと「清い心」「責任」「奉仕」という、言わば校訓の一つとなっています。私はこの三つの言葉を最初見たとき、少し違和感がありました。「清い心」だけ他の二つと少し語感が違うなと思ったんですね。「清い心」は和語、「責任」「奉仕」は漢語ですし、「責任」「奉仕」は主に行動を示しているのに対し、「清い心」は心の状態を示しています。「清く・正しく・美しく」とか「誠実・勤勉・友愛」のように語呂のいい校訓も他校にはありますが、「清い心」「責任」「奉仕」は三つがフラットに並んでいるのではありません。、並列ではなく「清い心」が先頭にあって他の二つの言葉と関係性を持っています。「生活のしおり」に「『清い心』から『責任』と『奉仕』」が生まれます」という構文として書いてあります。

 

◇責任・奉仕を妨げる混じり気・濁り◇

では「清い心」とはどんな心かというと、これが難題です。辞書的には「混じり気がない、にごりや汚れのない心」という意味ですが、感覚的な言葉なので、結局は各自考え続けてイメージをしていくしかない。私も「清い心って何だろう」と考え続けているのですが、ある時、思いました。「清い心」単独で考えるのではなく、「清い心」「責任」「奉仕」という文脈(関係性)の中で捉えたほうがいいのではないか?

そうすると「責任」とか「奉仕」を妨げるような「混じり気」「濁り」がない状態が「清い心」とひとまず言うことができます。つまり「責任」を簡単に言うと「自分が今すべきことに応えること」ですが、例えば、勉強する責任を果たせない時は、怠け心とか誘惑とか、何らかの雑念、濁りがあるということです。「奉仕」=「人のために何かをしたい」けどできないような時も、面倒だとか人の目が気になるとか、いろいろな気持ちが混じってくるわけですよね。

 

◇清い心を目指して雑念に打ち勝つ強さ◇

ただここで言う「清い心」は必ずしも雑念が何もない状態を言うのではないと思います。お祈りの中にもあるように、キリスト教人間観によれば、私たちは日々、たびたび罪を犯し、誘惑に負けてしまう、弱い存在です。生きていれば日々いろんなことがあって、部屋の中が汚れるように、心の中にも濁りや混じり気が必ず出てきます。でもその弱さを自覚することによって、「責任」「奉仕」を妨げる気持ちに打ち勝つ強さを持って少しでも「清い心」を目指しましょうということだと思います。

私は今のところ、こんなふうに考えますが、皆さんも「清い心」とはどんな心か、各自考え続けてください。

校長 村手元樹

*2024.9.19 全校朝礼