◇毎日この祈りを唱えることの意味深さ◇
おはようございます。いま私たちは「主の祈り」を唱えたわけですが、これは全国のミッションスクールが共通して唱えるお祈りだと思います。帰りに唱える「アヴェマリアの祈り」はカトリック系のミッションスクール特有のものだと聞いています。私はこの「アヴェマリアの祈り」について、前々から薄々「すごいな」と思っていたことがあります。それは「今も、死を迎える時も、お祈りください」という最後の一節の「死を迎える時も」という言葉です。年を重ね、命に限りがあることを自ずと意識する年代ではなく、高校生がこういう言葉を毎日唱えるというのは、とても意味深いことなのではないかということなんです。
これは「私だけの感覚かな」と思っていましたら、先日ある神父様からこんな話を伺いました。公立高校にずっと勤めていて、その後カトリック高校に移った先生がいて、生徒たちが毎日このお祈りを唱える姿を見て、「高校生が毎日『死を迎える時も』と祈っている、これは一体どうしたことだ」と衝撃を受けたらしいんですね。そして奥さんと一緒に教会に通い始め、その後洗礼を受けたという話です。この感覚は私だけでないと思った訳なんです。
◇死は生を照らす◇
私がこう思っていたのにはバックグラウンドがあって、私は昔から兼好法師の『徒然草』という本を愛読しています。その根本思想の一つが「死を意識せよ」ということです。平たく「無常観」と言ってもいいかもしれません。「死を意識せよ、なぜなら、「死は生を照らす」(死は生を輝かせる)からだ」と兼好法師は説きます。「死(命に限りがあること)を意識することによって初めて、生きている喜びを感じることができる。一日の大切さが身にしみる。」というようなことを言っているのです。
先生方が皆さんによくお話ししてくださる「命は時間である」というのもそういう意味です。私たちの人生は、高校生活もそうなのですが、タイムリミットがあります。
◇いのち(時間)の大切さを描いた小説◇
少し前、中高生に一番多く読まれていた本に『君の膵臓を食べたい』という小説がありました。ベストセラーになり、映画化されたりアニメ化されたり、略して「キミスイ」と呼ばれたりするほど話題になりました。
重い病気を抱えた高校2年生の女子とクラスメイトの男子との心の交流を描いた小説です。この小説はいきなり主人公の女の子の葬式の場面から始まります。そこから時間が遡っていきますが、読者は初めから主人公の死を意識して読み進めることになります。だから明るく何気ない場面にも掛け替えのなさが身に染みてきます。
◇死者の月◇
11月はカトリック教会では「死者の月」とされていて、本校でも「慰霊の集い」があります。各クラスの「宗教」の授業でも「クラス慰霊祭」を行ないます。
亡くなられた方のことを思い起こすとともに、命の大切さや生きる意味について改めて考える機会としてもらえたら幸いです。
校長 村手元樹
*2024.10.31 全校朝礼