【長崎紀行⑤】永井隆博士のこと(前編)
2025.01.11

如己堂


◇如己堂を訪ねる◇

なんじの近き者を己の如く愛せよ(マルコによる福音12章31節)

長崎への原爆投下によって永井隆博士は一瞬にして妻と家を失い、二人の幼い子どもが残された。この父子のために隣人たちが小さな家を建ててくれた。博士はその二畳ひと間の家を「如己堂(にょこどう)」と名付けた。この名前には、聖書の御言葉のように隣人が「己(おのれ)の如(ごと)くに自分を愛してくれている」感謝の気持ちと自分もそういう生き方を志す心構えが示されている。

私はこの修学旅行で、初めて「如己堂」に訪れる機会を得た。この小さい家を目の当たりにして親子三人が暮らしている姿を想像し、胸が熱くなった。隣には永井隆記念館が建てられており、入り口には永井博士による「如己愛人」(己の如く人を愛せよ)の書が掲げられていた。小中高生で混雑する狭い記念館の中で博士の人生を振り返る。外国人観光客もいて、ガイドさんの説明を熱心に聞いている。

 

◇永井隆博士の歩み◇

永井博士は1908年に島根県で生まれ、二十歳で長崎医科大学に学び、そのまま大学に勤め、研究と治療に取り組んだ。途中、満州事変に軍医として従軍するが、帰還後、浦上天主堂でカトリックの洗礼を受けた。専門は放射線医学、レントゲン診断や治療などに従事した。折しも戦時中で、多くの専門家が戦場に駆り出されたため、患者が数少ない専門家に集中。永井博士は患者を見過ごすことができず、基準値以上の被爆を重ね、1945年6月にはそれによる白血病と診断され、余命3年の宣告を受けた。それでも博士はあいつぐ空襲のため患者で満員となり、半ば野戦病院と化した大学病院で働き続けた。

それに追い打ちを掛けるようにその年の8月9日に原子爆弾の被害に遭う。博士は重傷を負いつつも救護活動に当たった。1946年7月、病状が悪化し、長崎駅頭で倒れ、その後は病床で原子病の研究と執筆活動を続ける。如己堂が完成したのは1948年3月、博士が亡くなる三年前の春だった。

校長 村手元樹


永井博士の胸像